2022年3月10日 漢字から感じた日本文化
先日、新幹線「のぞみ」に乗り大阪出張しました
ホームの電子掲示板が「のぞみ」「ひかり」「こだま」と名前を表示しています
どうして「のぞみ」は「望」、「ひかり」は「光」、「こだま」は「小玉」
と書かないのでしょうか
新幹線名前の由来を調べてみたら、どうも大和言葉にこだわりがあり
日本国鉄の列車の名前は歴代すべて大和言葉で付けられてたそうです
その理由ですぐに腑に落ちました
一方、歳末の風物詩と代表する京都清水寺での「今年の漢字」は
日本人が感じたことを漢字一文字で世相として表現したものです
漢字の国で生まれた私にとっては
漢字を見るとすぐに意味が分かるのが便利で
さらに、ことばを短く簡潔に表現できる親近感があります
しかしながら、小説、俳句などの場合は、あまり漢字が多くなると
面白みがうすれ硬い文と連想してしまいます
たとえば、「美味しい」も「おいしい」と書く
「現れる」「表れる」も「あらわれる」と書く
漢字で書くと、そこに見えるのは「結果」である感じがする
「おいしい」「あらわれる」だと「経過」だという気分があります
漢字は4~5世紀に仏教とともに中国から日本に伝わったいわれ
漢字は一字一字の意味があり、その成り立ちにも理屈があります
男と言う字は田の中で力一杯働く姿をあらわしたものであり
水の中弱ってしまったのが「溺」で
物や現象の本質をとらえて作られたのが漢字です
その上、日本語の中には、中国の漢字にない弱る魚「鰯」という字を作ってあてました
よそからの色々な外来文化を適所適量により自己流に変える
いつの間に自分のものにしてしまうのは日本独自の創造であろうと思いました
そしてそれは単なる漢字の相違でけでなく
文化の違いに大きく起因しているではないかと考えました